熊野筆の歴史

【熊野と筆の出会い】

熊野町で筆作りが始まったのは江戸時代末期と言われています。
当時の熊野の人々は、主に農業で生計を立てていましたが、農地も少なく、それだけでは生活を支えきれず、農閑期には吉野(奈良県)地方や紀州(和歌山県)地方へ出稼ぎに出ていました。出稼ぎの帰りには奈良や大阪、有馬(兵庫県)地方で筆や墨を仕入れて、行商しながら熊野に帰っていました。これが熊野と筆を結びつけるきっかけとなったのです。
こうしたことが繰り返されている間に、天保5年(1835年)佐々木為次は13歳の時、有馬(兵庫県)に行きました。そこで彼は4年間、筆の作り方を学び、天保9年(1839年)17歳で熊野に帰ってきました。また、弘化3年(1846年)井上治平(井上弥助)は18歳の時、広島の浅野藩御用筆司吉田清蔵より、筆作りの技術を学びました。さらに同じころ、乙丸常太(音丸常太郎)も有馬(兵庫県)より、筆作りの技術を学び、熊野に帰ってきました。そして彼らは人々に技術を広め、筆作りは熊野に根を下ろし始めました。

【明治以降】

このように熊野に伝わった筆作りが、飛躍的に発展したのは、明治に入ってからです。
明治5年(1872年)に学校制度が出来、学校に行く子供が増えると、筆がより多く使われるようになりました。そのため、筆作りをする人が増え、良い筆を作る努力や工夫がいっそう進められるようになりました。
明治10年(1877年)には、第1回内国勧業博覧会に出品された熊野の筆が入賞しました。人々のこうした努力によって、熊野筆の名は、次第に全国に知られていくようになりました。
明治33年(1900年)に義務教育は4年間になり、学校に通う子供たちの数が増えると、筆はますます使われるようになりました。この頃から東京、大阪、奈良などでは、近代産業の発展とともに次第に筆作りが衰え始めました。一方、熊野には新しい産業が入らず、筆作りが地域を支える産業として発展していきました。昭和11年(1936年)には、7000万本もの筆を作るまでになりました。

【第二次世界大戦以降】

ところが、第二次世界大戦が起こると、原料が入りにくくなり、また、働く人を戦争に取られるなどの理由から、筆作りがほとんど出来なくなりました。
戦争が終わって2年後、学校での習字教育がなくなりました。このことは、熊野の筆作りにとって大きな問題で、人々は、この問題を解決するために知恵を出し合いました。そうして、このころ画筆や化粧筆作りに活路を求める人もありました。
そのうちに小学校で毛筆習字が許されるようになり、昭和33年(1958年)には、文部省の学習指導要領に取り入れられ、筆作りに再び希望が持てるようになりました。

【伝統的工芸品認定から現在まで】

昭和50年(1975年)には、熊野の筆産業が、中国地方で最初に伝統的工芸品として通商産業大臣(現在の経済産業大臣)より指定を受けました。
さらに平成16年(2004年)12月には、当時としては全国的にも珍しい団体商標を取得しました。これは標準文字での商標のため、「クマノフデ、クマノヒツ、クマノ」の称呼となるすべての文字が対象となります。
平成18年(2006年)1月には、熊野筆の統一ブランドマークも開発され、熊野で作られた製品である証として、広くPRされています。

今や熊野筆は、多く人々からその品質を認められ、世界中で親しまれています。

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